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【中日新聞】 命の尊さ、ありのまま 林京子さんと考える

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 「書きたいんです。命とは何か」。作家林京子さんのそんな願いが、長崎から福島への一本道を明らかにした。私たちはそこからどこへ行くのだろうか。
 本人の意思とは関係なく「原爆作家」と呼ばれてきた。だが、明らかに何かが違う。
 十四歳、長崎県立高女三年の時に、勤労動員先だった爆心から一・四キロの三菱兵器製作所で被爆した。
 長崎市内で生まれ、一歳で上海へ。父親は石炭を扱う三井の商社マン。戦況の悪化に伴い帰国したのは敗戦の年の三月だった。 加害者の視点も秘めて
 魔都上海の共同租界で、「侵略者の国の子供」として育てられ、加害者の視点も持っていた。原爆が一瞬に消し去ったふるさとの風景に対する感傷は薄かった。
 だからだろうか。一九七五年に芥川賞を受賞した「祭りの場」には、かなり乾いた叙述も目立つ。
 その五年前、学習雑誌に登場した全身ケロイドだらけの「ひばくせい(星)人」を見て、「原爆の被爆者を怪獣に見たてるなんて、被爆者がかわいそう」と女子中学生が指摘し、問題になった。今で言う炎上だ。
 林さんは、こう書いた。
 <漫画だろうと何であろうと被爆者の痛みを伝えるものなら、それでいい><「忘却」という時の残酷さを味わったが、原爆には感傷はいらない>(祭りの場)と。
 被爆後三十年が過ぎていた。記憶と体験の風化が進む。しかし、被爆者の心と体が時間の経過に癒やされることはない。不安は一生つきまとう。
 「被爆者たちは、破れた肉体をつくろいながら今日まで生きてきました」と、林さんは語っている。 長い時間の経過の中で
 そんな被爆者の、そして自分自身の長い長い時間の経過を、林さんはなぞり続けてきたのである。
 風化にあらがい、怒りと不安を心の奥に深く沈めて、子どもの目でありのまま、化学記号のように的確に表現できる言葉を探しつつ−。
 「核の問題には決して決着がつかない。どこかで終わってしまったことにはできない」「核というものは、絶対に利益にはつながらない」−ということを静かに訴え続けてきたのである。
 3・11は、林さんのそんな心を激しく揺さぶった。
 <放射性物質、核物質への認識の甘さ。人体が受ける放射性物質の危害は、(八月の)六日九日とイコールなのですが/“想定外”という狭量な人智(じんち)の枠に閉じ込めて報道される対策を聞きながら、私は、この国は被曝(ひばく)国ではなかったのか、と愕然(がくぜん)としました>
 昨年暮れに刊行された短編集「谷間
 再びルイへ。」のあとがきに、そう書いた。
 8・6、8・9と3・11は、疑う余地なく“地続き”だったのだ。
 林さんが秘めたる怒りをあらわにしたのは、福島原発事故の放射能が人体に与える影響について説明する「役人」の口から「内部被曝」という言葉が出た時だ。
 「直ちに影響はない」という。
 <八月六日九日から今日まで、幾人のクラスメートが、被爆者たちが『内部被曝』のために『原爆症』を発症し、死んでいったか。原爆症の認定を得るために国に申請する。国は却下。被爆と原爆症の因果関係なし。または不明。ほとんどの友人たちが不明と却下されて、死んでいきました。被爆者たちの戦後の人生は、何だったのでしょう>(再びルイへ。)
 「物書きの性(さが)でしょうか」と恐らく苦笑を浮かべ、林さんは再びペンをとりました。
 8・6、8・9から3・11へ、そして未来への“橋渡し”をするために。
 あれから六年。首相が五輪招致の演説で福島は「アンダーコントロール(管理下にある)」と世界に向けて公言してから三年半。事故処理は遅々として進まない。
 科学の粋を集めたロボットも放射線には歯が立たず、溶け落ちた燃料の所在も正体もつかめない。汚染水は止められない。核のごみの行き場は決まらない。
 なのに政府と電力会社は原発の再稼働と、放射能に故郷を追われた避難者の帰還だけは、ひたすら急ぐ。誰のため、何のために急ぐのか。 この国のほころびは
 林さんが何より恐れた風化が進む。この国のほころびをつくろいながら、私たちはどのように生きていくのか。つくろうことはできるのか−。
 “続き”を書くのは、私たちの仕事である。
 風化にあらがい、命の尊さ、はかなさを直視して、子どもの目でありのまま、化学記号のように的確に表現できる言葉を探し−。  

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