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【北國新聞】 能登立国1300年 「客人」を呼ぶ新たな風を

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 海岸の漂着物を巻き付けた鳥居が潮風を受けて直立している。空き施設に入ると赤い毛糸が毛細血管のように室内いっぱいに張り巡らされていた。昨年秋、素朴な里山里海が広がる珠洲市一帯で開かれた奥能登国際芸術祭の会場には、従来の能登のイメージとは異質な現代アートの作品群が並んだ。訪れた鑑賞者は目標の2倍を超す7万1千人である。
 羽咋、能登、鳳至、珠洲4郡が越前国から分かれ「能登国」として誕生して、ことしで1300年になる。歴史と伝統が息づく地で刺激的なアートの祭典が大成功を収めたことは、まだ残る「秘境」「辺境」という固定観念にくさびを打ち、新たな文化の発信地になりうる可能性を示した。何しろ既成の奥能登を体現したようなじいちゃん、ばあちゃんたちが先頭に立って「祭」を盛り上げたのだ。
 能登には、海や山のかなたにある理想郷から神々が渡来し幸福をもたらす「客人(まれびと)」伝説が息づく。「あえのこと」のようなもてなしの民俗行事が根付く能登は、古くから柔軟に客人を受け入れてきた。奥能登国際芸術祭に集ったアーティストや観賞者も、この地に活力を注ぐ客人に違いない。節目の年に、膝元で暮らす私たちが貴重な財産の価値を見つめ直し、新たな客人を招く多様な魅力を掘り起こしていきたい。
 立国当時の能登国は、朝廷にとって東北征伐の拠点であり、大陸との交流の要衝に位置づけられていた。福浦港は日本海の対岸の強国・渤海からの使節の来着地として栄え、平安貴族の先端ファッションだった黒貂(てん)や虎の毛皮が持ち込まれる流行の先進地だった。
 戦国時代には守護の畠山氏が七尾に城を構え、京から下向した文化人によって畠山文化が花開いた。その土壌から画聖・長谷川等伯が巣立った。曹洞宗大本山として總持寺が輪島市門前町にあったころ、全国の末寺の住職が輪番で赴き、務めを終え自坊へ戻る際に椀や御膳を買い求めた。これが輪島塗を広めた礎とも言われる。能登はその歩みの中で、多様な交流の十字路に位置していたのだ。
 しかし明治中期にこの地を探訪した米国の天文学者パーシバル・ローエルが「孤立した能登の国」と称したように、日本の重心が太平洋側に移るにつれ、最果ての半島というイメージが固まった。
 国府が置かれた七尾市を中心に能登各地で1300年を飾る企画や事業が展開されるが、過去の懐古にとどまらず、出会いの場としての能登の再興を促す、斬新なアプローチにも知恵を絞りたい。
 七尾市出身の作家、杉森久英氏が1975(昭和50)年に本紙に寄せた文章に「私は能登がおくれていて、よかったと思っている」という逆説的な一節がある。大都会のように荒れた状態を元へ戻すのは難しいが、幸い能登はまだ無傷であり「新しい技術を思いきり大胆に、また極度に用心深く使えば、日本中でもっとも清潔で豊かな、住みよい地区に作り上げることができる」と期待を寄せた。公害が深刻だった時代の名残も感じるが、良き伝統や風景を壊さぬように気を配りながらも、進取の気性で大胆にふるさとを磨けというエールに思える。
 昨年秋、七尾市中島町の能登演劇堂で開催された仲代達矢氏率いる無名塾のロングラン公演は、25回の会期中1万4千人が訪れた。無謀とも言われた斬新な演劇堂の建設と地方でのロングラン公演が成功した根底には、30年以上前に無名塾の合宿が始まったころから客人と地元が結んだ絆の強さがある。本紙夕刊連載で仲代氏は、その絆の象徴である演劇堂を「大げさじゃなく、命より大事な場所」と語った。希代の名優にそこまで言わせるほど懐の深い能登のやさしさと大胆さは、杉森氏の期待を裏付けるものだろう。
 2015年の国勢調査では、かほく市以北の全市町の人口が前回調査を下回った。気合だけで解決できないほど、過疎と高齢化は深刻である。しかし奥能登でいま、まさにその状況を逆手にとった未来の生活スタイルとして「自動運転」の実証実験が進んでいるように、過疎地を先進地に変える取り組みも動き出している。自動運転の車で、ゆっくり芸術祭や演劇や祭りをたどれる近未来の能登へ、新たな客人たちを呼び込みたい。

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